武豊町について

武豊町地名の由来

武豊町の地名について、どんな背景があったのかについて調べてみました。

武雄神社に関係する地名

「長尾七宮」と言われる武雄神社近隣のお社は長尾城の出城の役割を果たしていました。この長尾七宮(若宮社・祠峯社・天神社・山ノ神社・白山社・八幡社・神宮社)の名前が地名として残っています。
また、武豊中学校高台は、白山社にちなんで、「白陵の丘」と呼ばれています。

若宮 若宮社にちなむ
祠峯 祠峯社にちなむ。
天神前 天神社にちなむ
山ノ神 山ノ神社にちなむ
金下 カンナビ(神様のいます地)が変化したもの
内鉋 カンナビ(神様のいます地)が変化したもの
ヱヶ屋敷 武雄神社初代宮司岩田弥七郎の邸にちなむ祢宜屋敷の変化し

長尾城に関係する地名

上ゲ 城主や家臣の住居があった高台の尊称
下門 城門の位置を示す
西門 城門の位置を示す
中挟 通称、馬場(ばんば)。馬の飼育や兵卒の訓練場だった?
高野前 館の前を表す「高殿前」の転化?
小迎 本神戸川を挟んだ「川迎」の変化?

その他

市場 富貴城下で市が立ったという説有
漁獲物・物産品の市場からつけられた
市原 富貴城下で市が立ったという説有
漁獲物・物産品の市場からつけられた
ヒジリ田 2説有り
①鎌倉時代、長尾城城主の岩田弘直が、戦を切り抜けられた神仏の加護に対して香椎聖宮(カシイヒジリノミヤ)を勧請して長尾城北東鬼門の地にまつり、その隣接の地を供米田として寄進。供米田は聖宮野田、「ヒジリ田」と呼ばれるようになった。
②戦の連続の中踏み荒らされた田畑に農民が苦しむ中、旅僧が自ら海岸を開拓して新たな田を開拓し村人もそれに続くように開拓していった。美しい新田になり、教観と名乗る旅僧の聖人が開拓した美田のため、「ヒジリ田」と呼ばれるようになった。
この時の豊作祈願の寺が今の蓮花院。
六貫山 2説有り
①長尾地区西北から眺めた時に六個の山(丘)が続いているように見えるため、六個山から変化した
②昔は盛田酒造の所有で、盛田さんのご先祖が江戸時代に六貫文で買い取ったため、六貫文の山から名づけられた
長宗 長峯?
中根 根は、尾根の根?
アサリ池 阿闍梨の池
大足 オオタリが古名
山の東側を大垂、西側を大谷とよんだもの
明神戸 豊石神社の入り口の地
熊野 お社にちなむ
白山 お社にちなむ
掘割 神戸川(成岩)と合流していた本神戸川を塩田を造る際に掘割によって海へ水を流すようにした
塩田 塩田のあった地
前田 部落前面の畑
前畑 部落前面の畑
東大高 大高は大鷹、贄代郷を示す
名古屋市の大高と区別するため東を付けた
塔ノ下 源頼朝が知里付神社に寄進した大塔が建てられていたところという伝説有
富貴 布木とも書く
諸説あり
・富貴城の城下町として富み栄えた
・海風の吹上のフキ
・着物の裾のフキ
・蕗のフキ

まとめ

神社の関係や城下に由来のある地名もあれば、新しく開拓されていく中で生まれた地名もあり、地名で歴史をたどるのも興味深かったです。諸説ある地名に関しても、どれもそれらしき名で、どれを信じるかといった楽しみもあると感じます。

今回地名を調べるにあたり、武豊町合併25周年記念の「武豊のむかしばなし」を参考にさせていただきました。いくつかの物語が書かれています。今に残っている神社や寺院、地名等、生活に身近なところで歴史を感じることができる内容でした。武豊町立図書館で借りることができるので、ご興味あればぜひよんでみてください。

古きよきものは、語り継がれていくことを願っています。

参照:武豊町『武豊のむかしばなし』昭和54年10月